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Erik Satie エリック・サティ

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ
(Erik Satie, Eric Alfred Leslie Satie, 1866年5月17日 - 1925年7月1日)
は、フランスの作曲家。
「音楽界の異端児」、「音楽界の変わり者」などと称されるが、
西洋音楽の伝統に大きな扉を開いた革新者とみなされている。
ドビュッシーもラヴェルも、その多くの作曲技法はサティによって
決定づけられたものだと公言しており、
印象主義の大作曲家たちはサティへの尊敬の念を
ずっと忘れることはなかったほど、
西洋音楽史上たいへん重要な人物である。

パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。
カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。
バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。
またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。
今日よく知られている『ジュ・トゥ・ヴー』(Je te veux)はこのときの曲。
薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。
同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。

なお『家具の音楽』は彼が自分の作品全体の傾向を称してそう呼んだとされ、
主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、
家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。
そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。

また、『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』
『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』といったように、
作品に奇妙な題名をつけたことでも知られている。

フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた
(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。

ドビュッシーとの交友関係もよく知られている。

◯作風
それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、
彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、
革新的な技法を平然と盛り込んでいった。
若い頃、教会に入り浸っていた影響もあり、
教会旋法を大胆にも自作品に採り込み、
そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、
そして、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが平然と書かれた。
それは、後の時代に、様々な旋法を導入する手法が西洋音楽において大流行する起爆剤となった。

教会旋法を復活させ、作曲に導入することを思いついたのは彼の偉大な業績であり、
後の印象主義のドビュッシーもラヴェルも、
旋法を扱うことによって、
既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、
この大きな潮流は、サティに発するものである。

並行音程や並行和音も彼は躊躇なく書いたが、
これも、印象主義において広く使われた大切な技法のひとつである。
ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに
ラヴェルは不満を呈しており、生涯サティへの敬意について公言し続けてきたラヴェルは、
その処女作「グロテスクなセレナード」において
既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、
また尊敬すべきサティから影響を受けた技法であることにも触れている。

また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。
したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることとなった。
拍子についても自由に書き、拍子記号や小節線、縦線、終止線も後に廃止された。
調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、
拍子記号や小節線などを書かずとも、
もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、
実際には、それらが書かれていないからといって、
調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。
散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も数多く存在し、
調性とはほど遠い楽句や作品も数多く生み出されている。

拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、
大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。
また、記譜法についての問題提起は、
後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、
図形楽譜などにまでつながる潮流の源流となっている。

調性崩壊のひとつの現象として、
トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、
それが依然として3度集積による和声であったのに対し、
サティは3度集積による和声を全く無視した和音を平然と導入した。
これは、解決されないアッチャカトゥーラや
3度集積によらない和音を平然と書いたドメニコ・スカルラッティ以降
はじめての和声的な大革新とされている。
この影響によって、印象主義からの音楽においては、
自由な和声法による広い表現力が探求されることとなった。

また、音楽美学的見地においても彼は非常に多くのあり方を導入したとされ、
鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。
「家具の音楽」に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、
イーノやケージたちによる環境音楽を決定的に動機づけたものとされ、
また、「ヴェクサシオン」における840回の繰り返し・
「古い金貨と古い鎧」第3曲結尾部における267回の繰り返し・
「スポーツと気晴らし」第16曲「タンゴ」や映画「幕間」のための音楽における永遠の繰り返しは、
スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。

多くの西洋音楽史の進化は、その兆候が徐々にやってくるのに対し、
サティがやり始めた数多くの革新は、過去の音楽や、
他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、
その殆どが純粋に彼独自の自発的で突発的なアイデアに基づいたものであり、
現代音楽の祖として評価は高い。
ただ、あまりにもその実際の傾向が特異すぎたことと、
複雑さを追求するような職人技よりもシンプルさを追求したものであったために、
その真価が正統に広く理解されていない不遇な作曲家として
旧来から惜しまれ続けている偉人であるが、
数多くの作曲家たちがサティによる開眼を公言している。

最後の作品となったバレエ「本日休演」では、
幕間に上映された映画「幕間」のための音楽も担当した。
またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、
サティの最晩年の姿を見ることができる。

◯生涯
* 1866年 - 5月17日オンフルールにて誕生。英国国教会で洗礼をうける。
* 1870年 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
* 1872年 - スコットランド人の母ジェイン死亡。
オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。
* 1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
* 1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。
サティは父のいるパリへ再度移住。
* 1879年 - 国立音楽院に入学。
父アルフレッドがピアノ教師であったウジェニー・バルネシュと再婚。
* 1886年 - 音楽院を退学する。
* 1890年 - 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
* 1891年 - 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
* 1893年 - シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。
6ヵ月後ヴァラドンと絶交。
* 1905年 - スコラ・カントルム入学。
* 1908年 - スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
* 1925年 - 聖ジョセフ病院にて病没。アルクイユの墓地に埋葬。

◯作品
舞台作品
* あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』 - 1899年
* 喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
* 喜歌劇『メドゥーサの罠』 - 1913年
* バレエ音楽『ユスピュ』 - 1892年
* パントマイム『びっくり箱』 - 1929年(編曲)
* バレエ音楽『パラード』 - 1916年
* バレエ音楽『メルキュール』 - 1924年
* バレエ音楽『本日休演(ルラーシュ)』 - 1924年
* バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
* 劇付随音楽『ソクラテス』 - 1920年
* 劇付随音楽『星の王子』(原曲は消失) - 1891年
* 「救いの旗」のための頌歌
* ナザレ人
* 天国の英雄的な門への前奏曲
* 夢見る魚
* 5つのしかめっ面 - 1914年

ピアノ曲(作曲年代順)
* ワルツ=バレエ - 1885年
* 幻想ワルツ - 1885年
* 4つのオジーヴ(尖弓形) - 1886年
* 3つのサラバンド - 1887年
* 3つのジムノペディ - 1888年
* グノシエンヌ(6曲) - 1890年
* 薔薇十字教団の最初の思想 - 1891年
* 「星たちの息子」への3つの前奏曲 - 1891年
* バラ十字教団のファンファーレ - 1892年
* ヴェクサシオン(嫌がらせ)
* ゴシック舞曲 - 1893年
* 4つの前奏曲
* 天国への英雄的な門への前奏曲 - 1894年
* 冷たい小品 - 1897年
* 舞踏への小序曲 - 1900年
* 愛撫 - 1897年
* ジュ・トゥ・ヴー
* エンパイア劇場のプリマドンナ
* 金の粉
* ピカディリー
* 夢見る魚
* ビックリ箱 - 1899年
* 壁紙的な前奏曲 - 1906年
* パッサカリア - 1906年
* 12の小コラール - 1906年
* 2つの夜の夢 - 1911年
* 新・冷たい小品 - 1906年?
* 〈犬のための〉ぶよぶよした前奏曲 - 1912年
* 〈犬のための〉ぶよぶよした本当の前奏曲 - 1912年
* 自動記述法 - 1913年
* 干からびた胎児 - 1913年
* あらゆる意味にでっちあげられた数章 - 1913年
* でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい - 1913年
* 古い金貨と古い鎧 - 1913年
* 子供の音楽集 - 1913年
1. 童話音楽の献立表
2. 絵に描いたような子供らしさ
3. はた迷惑な微罪
* 新・子供の音楽集 - 1913年
* メドゥーサの罠
* 踊る操り人形
* 5つのしかめっ面
* 世紀的な時間と瞬間的な時間 - 1914年
* 嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ - 1914年
* 最後から2番目の思想 - 1915年
* スポーツと気晴らし(全21曲) - 1914年
* ラグ・タイム・バラード
* 官僚的なソナチネ(全3楽章) - 1917年
* 5つの夜想曲 - 1919年
* パンダグリュエルの幼年時代の夢 - 1919年
* 最初のメヌエット - 1920年
* シネマ
* 梨の形をした3つの小品(4手連弾) - 1903年
* 不愉快な概要(4手連弾) - 1908〜12年
* 馬の装具で(4手連弾) - 1911年
* バラード
* 組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
* 風変わりな女(管弦楽曲、または4手連弾) - 1920年

そのほかの器楽曲
* 右や左に見えるもの〜眼鏡無しで(3楽章、ヴァイオリンとピアノ) - 1914〜15年
* いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット) - 1921年

宗教曲
* 貧者のミサ

歌曲
* 男寡
* 歌詞のない3つの歌曲
* いいともショショット
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Iannis Xenakis ヤニス・クセナキス

ヤニス・クセナキス
(ギリシャ語:ΓιタννηV ΞενタκηV、
ローマ字:Iannis Xenakis、英語圏の発音ではゼナキス、
日本語の文献ではイアニス・クセナキスとも、
1922年5月29日 - 2001年2月4日)は、
ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。

◯略歴と作風
建築と数学を学んだ後第2次世界大戦中にギリシャ国内で
反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わるが、
負傷して片目を失い逮捕され、1947年に死刑を宣告される。
しかし何とか脱出しフランスへ亡命した。
以後その生涯の大半をフランス国内で過ごす。

1948年より建築家ル・コルビュジエの下で働き、
建築家として1958年のブリュッセル万国博覧会でフィリップス館を建設する。
このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作
電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」が演奏され、
後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。

その一方で作曲を学び、パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンらに師事する。
このときメシアンに「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか」と言われ、
その慧眼に強い霊感を受ける。
そして数学で生み出されるグラフ図形を元に、
縦軸を音高、横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲した
オーケストラ曲「メタスタシス」を1954年に作曲し、
ドナウエッシンゲン音楽祭で鮮烈なデビューを飾る。
「メタスタシス」は3部よりなる管弦楽曲「アナステナリア」(1952-54)
の第3曲目であるが、あまりに作風が他とかけ離れて先鋭的であるため、
これを独自に作品1とした。

その後も数学の論理を用い、コンピュータを使った確率論的手法
(「ピソプラクタ」より採用)で多くの斬新な作品を生み出した。
日本の作曲家・ピアニスト高橋悠治の協力を得て、
室内楽や独奏でも「エオンタ」や「ヘルマ」など初期から優れた作品を発表したが、
特に管弦楽曲や電子音楽など多くの音群を自在に扱うことのできる分野でもっとも手腕を発揮した。
中期の2つの傑作、会場内に奏者がランダムに配置される管弦楽曲「ノモス・ガンマ」と、
照明演出を伴う電子音楽
「ポリトープ」(クリュニー、モントリオールなどいくつかの版がある)で、
彼の作風は一つのピークを迎える。
日本の大阪万博では、「ヒビキ・ハナ・マ」(響き、花、間)(1969年)
という日本語の題を持つ多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表した。

その後作風は変化し、「メタスタシス」以前の習作に見られる
ギリシャの民謡に基づくアイデアを混合させた作品を手がけるようにもなった。
この分野の代表作では音楽劇「オレステイア」(1965年)、
「アカンソス」、「夜」等がある。
1970年代の作品では方眼紙を用いた直感的なグラフ作法と
天性のバルカン半島的な韻律に基づき、
室内楽作品を中心に聴き応えのある作品が多い。

また電子音楽の作曲用コンピュータとして、
ペンとタブレットで線形を描くと音響として反映されるUPICを1985年に開発した。
当時としては斬新な技術であり、グラフがそのまま音楽になるこの装置は、
グラフィカルな作曲方法をとる彼ならではの発想といえる。
同じくグラフィカルな作曲を行う湯浅譲二もこのUPICを使用し作品を生み出している。

近年Timpani社からのリリースによって全貌が明らかになってきているのが、
晩年の管弦楽曲の創作軌跡である。
ギリシャの韻律をそのまま転写したかのような平板なリズムに、
クラスター状の音塊をモノリズムで動かすという大胆な癖のある音色に固執した。
「デマーシャイン」ではメロディーを常に半音重ねにしてあるために、
凶悪とも言えるノイズィな音色へ傾斜してゆく。
「キアニア」では「ホロス」や「アケア」等の自作の引用なしでは筆が進まなくなっており、
圧倒的な大音量の割には聴覚の飽和状態を生み、技法の手詰まりを感じさせる。

生涯を通じて多作であり、現代作曲家としては委嘱や演奏に恵まれた数少ない例といえる。
晩年は京都賞を得て来日もしたが、
既に執筆原稿は高橋悠治の校正なくしては読めるものにはならず、
徐々にアルツハイマー型痴呆症に冒され作曲が困難となった。
1997年に書いた作品に「オメガ」(ギリシャ語の最後の文字)
と題名をつけ作曲行為に自ら終止符を打ち、2001年にその生涯を終えた。

作品はサラベール社より出版されている。
唯一の公称の弟子にパスカル・デュサパンがいる。

妻のフランソワーズ・クセナキスは作家。
最近作のRegarde, nos chemins se sont ferm市
(見よ、我らの道々は閉じられている)は、
夫ヤニスの晩年の闘病記を元にした私小説である。

◯主な作品

管弦楽
* メタスタシス
* ピソプラクタ
* ノモス・ガンマ
* テレテクトール
* ノモス・ガンマ
* コネクシティーズ—シナファイ(ピアノ協奏曲)
* エリクソン(ピアノ協奏曲)
* ジョンシェ

室内楽
* ST/4(弦楽四重奏)
* エオンタ(ピアノ、2トランペット、3トロンボーン)
* ペルセファッサ(6人の打楽器奏者)
* プレイアデス(6人の打楽器奏者)
* テトラス(弦楽四重奏)

独奏曲
* ヘルマ(ピアノ)
* ノモス・アルファ(チェロ)
* エヴリアリ(ピアノ)
* ミッカ(ヴァイオリン)
* グメーオール(オルガン)
* プサッファ(打楽器)
* A.r(ピアノ)

声楽曲
* ポラ・タ・ディナ(児童合唱、管楽器、打楽器)
* オレステイア(混声合唱、児童合唱、12奏者)
* 夜(12人の混声合唱)
* サンドレ(混声合唱、管弦楽)
* アカントス(ソプラノ、器楽アンサンブル)
* モーリスのために(バリトン、ピアノ)

テープ音楽
* 東洋—西洋
* 響き—花—間
* ペルセポリス
* エルの伝説

著書
* 『音楽と建築』(高橋悠治訳/全音楽譜出版社/1975)

Johann Sebastian Bach ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

基本情報
本名 Johann Sebastian Bach
出生地・日 1685年3月21日
ドイツ アイゼナハ
出身地 ドイツ
死没地・日 1750年7月28日
ドイツ ライプツィヒ
ジャンル バロック音楽
職業 作曲家、オルガニスト
担当楽器 鍵盤楽器クラシック音楽

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月21日 - 1750年7月28日)は、18世紀に活動したドイツの作曲家、さらには鍵盤楽器の名手として、西洋音楽史上において重要な位置にある存在であり、もっとも偉大な一人であるという意見も根強い。ミドルネームは、セバスティアンとも書かれる。バッハ家は音楽家の家系であり、バッハ姓の作曲家は非常に多い。ヨハン・ゼバスティアンはしばしば「J. S. バッハ」と略記され、また「大バッハ」とも呼ばれる。彼の信奉者からは「音楽の父」とも称される。
目次 [非表示]


[編集] 生涯

バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を生業とした大一族であった。2世紀半の間に約60人の音楽家を輩出し、遺伝学の研究対象とされたこともある。ただし、当時はまだ貴族の子は貴族、農民の子は農民、というように身分が固定されており、職業音楽家の家系は職業音楽家以外の選択肢があまりなかった、という事情も考慮しなければならない。付記するならば、彼の時代の音楽家とは現在のクラシック音楽の一流演奏家のような高い名声とそれに見合うような収入を得るいわゆる名士ではなく、むしろ十把ひとからげで扱われる楽器担当の召使いのような存在であった。もちろんこれは彼の時代の音楽家の最も一般的なありようであった。

ヨハン・ゼバスティアン(以下バッハとする)はアイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。バッハが10歳の時に父が死去し、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。

1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職、その後まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになった。すでにバッハの能力は高く評価されており、1707年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに(教会付きオルガニストとしては)異例の好条件で招かれた。同じ年、遠戚にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚した。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。

1708年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。多くのオルガン曲はこの時期の作品である。1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。しかし最終的には主家のお家騒動の余波を食らって投獄された後、ヴァイマルを追放された。

バッハにゆかりのある土地

1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。1720年夏、領主に従っての旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。彼女は有能な音楽家であったと見られており、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏された曲が折々に書き込まれていった。アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、クリスティアンは彼の子供の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、彼らはみな音楽家として活動した(下記)。

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)(通称「トーマスカントル」)に就任。この地位は事実上ライプツィヒ市の音楽監督にあたっており、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。

1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。

1749年頃から眼疾患が悪化し手術を受けたが、医師テイラーの技術が未熟であったため、手術後は病床に伏し、1750年に65歳でこの世を去った。生前の彼は作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として高く評価されていたが、彼の楽曲は息子や弟子たちによって細々と、しかし確実に受け継がれ、死後100年前後経った後に「再発見」されて高く評価されるようになった。

なおバッハの子孫がアイゼナハに1960年代に生存していたことが確認されている。


[編集] ヨハン・ゼバスティアンの子供達

* ヴィルヘルム・フリーデマン (Wilhelm Friedemann、1710 - 1784) 長男。通称「ハレのバッハ」。
* カール・フィリップ・エマヌエル (Carl Philipp Emanuel または C.P.E.、1714 - 1788) 次男。通称「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」。
* ゴットフリート・ハインリヒ (Gottfried Heinrich、1724 - 1763) 四男。
* ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ (Johann Christoph Friedrich、1732 - 1795) 五男。通称「ビュッケンブルクのバッハ」。
* ヨハン・クリスティアン (Johann Christian、1735 - 1782) 末子。通称「ロンドンのバッハ」。


また、架空の息子(?)も存在する。

* P. D. Q. バッハ (P. D. Q.、1807 - 1742) 20世紀にアメリカの教授ピーター・シックリーがバッハの21番目の息子として捏造し、冗談音楽の作品を発表した。



[編集] 作品
作品についてはヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品一覧をご覧ください。

バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その作風は、通奏低音を基礎とした和声法を用いつつも、根本的には対位法的な音楽であり、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。従って、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。

彼はドイツを離れたことこそなかったが、大変に勤勉かつ勉強熱心で、幅広い音楽を吸収した。J.-H. ダングルベール、クープランなどのフランス音楽からは細部の語法や優美さ、G. フレスコバルディ、ヴィヴァルディなどのイタリア音楽からは明朗な旋律やくっきりした形式感、南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)に見られる暖かな叙情性、北ドイツの音楽(スヴェーリンク、ヴェックマン、ブクステフーデなど)からは深い幻想性や重厚な和声感、さらにはパレストリーナに代表される「古様式」までもを研究した。そういった様々な要素をバッハは完全に消化して、彼自身の個性に満ち溢れた偉大な音楽を創りあげたのであった。とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。

当時、ヘンデルやテレマンを含めた多くの作曲家は、作曲するにあたって、曲の大まかな形を記すにとどめ、演奏家はそれに複雑な装飾を加えるなどして演奏していた。しかしバッハは、比較的細部まで楽譜に記した点で特徴的と言える。

いみじくもベートーヴェンがバッハについて語った『和声の父祖』、『「小川(ドイツ語でBachとは小川の意)」ではなくて「大海 (Meer)」』という言葉は、現在ではドイツ音楽中心主義的な発言として批判的に語られることもあるが、それでも、彼の遺した作品とそこに用いられた技法は、いわば西洋音楽のエッセンスを凝縮したものと言うことができるだろう。それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽に応用され、多くの人びとに刺激を与え続けている。

バッハの作品はシュミーダー番号(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)によって整理されている。「バッハ作品目録」は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に配列されている。


[編集] 声楽曲

バッハはその音楽的経歴の大部分を教会音楽家として送り、宗教的声楽曲は彼の作品群の中でも非常に重要な位置を占める。特に、ライプツィヒ時代の初期数年間においては、毎日曜日の礼拝にあわせて年間50〜60曲ほど必要となるカンタータをほぼ毎週作曲、上演するという、驚異的な活動を行った。

* ちなみに、彼は、宗教曲の清書自筆譜の冒頭に「JJ」(羅:Jesu juva!=イエスよ、助けたまえ)と、最後に「SDG」(羅:Soli Deo Gloria!=ただ神のみに栄光を)と書き込むことを常としていた。


今日残されているのは、ドイツ語による約200曲の教会カンタータ、2つの受難曲と3つのオラトリオ、6曲のモテット、ラテン語によるマニフィカト1曲、小ミサ曲4曲と大ミサ曲1曲が主要なものである(ドイツ語作品では、ルター派の伝統に立脚したコラールが音楽的な基礎となっていることが多い)。これらはテクストの内容に密着しながらも、それを越える深い人間的な感情に満たされており、われわれに慰めをあたえてくれる傑作の宝庫である。

また、それとは別に、宗教的な題材によらない約20曲の世俗カンタータもある。目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、さらにコーヒー店での演奏会用の作品と見られるもの(『コーヒー・カンタータ』、BWV.211)もある。その中にはしばしばユーモアが滲み出ており、バッハの人間性にじかに触れるかのような楽しさが感じられる。なお、テクストを取り替えること(パロディと呼ばれる)によって宗教的作品に転用されたものも存在する。

マタイ受難曲 (Matth隔spassion) BWV244
古今の宗教音楽の最高峰で、2部全68曲(曲数は新バッハ全集 (NBA) の数え方による)からなる。1727年にライプツィヒにて初演された。後世、メンデルスゾーンによって取り上げられ、バッハを一般に再認識させるきっかけとなったと言われている。
ミサ曲 ロ短調 (MESSE in h-moll) BWV232
マタイ受難曲が、独唱者依りの傑作とされる一方、ミサ曲ロ短調は「バッハ合唱曲の最高傑作」と称されている。最初の2つの部分、キリエ(Kyrie )及びグローリア(Gloria ) は1733年に、サンクトゥス (Sanctus ) が1724年に書かれ、残り大半は1747年から49年にかけて既存作品を利用しつつ作曲された。最近の研究では、バッハが最後に完成させた曲とされる。
マニフィカト BWV243
ラテン語の歌詞を伴う明るい作品であり、他のカンタータなどのようにドイツ語の歌詞やコラールを伴わない。深刻な音楽を好まないラテン系の諸国においては、バッハの作品として人気が高い。



[編集] オルガン曲

生前のバッハは、何よりもまずオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。そのため、各地でオルガンが新造されたり、改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスとあわせて即興演奏をはじめとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。

バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた「コラール編曲」と、コラールに基づかない「自由作品」(前奏曲、トッカータやフーガなど)の2つに分類される。楽曲の特徴としては、足鍵盤パートが完全に独立した声部として重視されている点が挙げられる。また、北ドイツ・オルガン楽派の影響を受けた初期作品の奔放な幻想性から、後期作品の古典的完成美までの様式的進展を跡付けることも可能である。現存する主要作品は、30曲余りの自由作品と、コラール前奏曲の4つの集成、いくつかのコラール変奏曲である。オルガン小曲集


[編集] クラヴィーア曲

バッハの時代には、ピアノはまだ普及するにいたっておらず、彼のクラヴィーア(オルガン以外の鍵盤楽器の総称)作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされている。その多くはケーテンの宮廷楽長時代に何らかの起源を持ち、息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっている。練習曲であるが、非常に美しく、また難易度も高い。

* 平均律クラヴィーア曲集 (Das wohltemperierte Klavier 独)(全2巻、第1巻 BWV846‐BWV869、第2巻 BWV870‐BWV893) - 長短24調による48の前奏曲とフーガ。ベートーヴェンのソナタがピアノの新約聖書と称されるが、このバッハの平均律クラヴィーア曲集はピアノの旧約聖書と称される。音楽史上もっとも重要な作品群である。
* クラヴィーア練習曲集(全4巻、第1巻「パルティータ」BWV825‐BWV830、第2巻「フランス風序曲」BWV831及び「イタリア協奏曲」BWV971、第3巻「前奏曲とフーガ変ホ長調」BWV552、コラール編曲BWV669‐689及び「デュエット」BWV802‐805、第4巻「ゴルトベルク変奏曲」BWV988) - バッハが生前に出版した鍵盤作品集。第1巻、第2巻及び第4巻は手鍵盤のための作品だが、第3巻には足鍵盤つきのオルガン曲が多く含まれている。



[編集] 器楽曲、室内楽曲

バッハの器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、G線上のアリアのもととなる楽章など、広く親しまれている作品が多い。4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、ヴィヴァルディの協奏曲の編曲である。

バッハの器楽曲で特に名高いものとしては、旋律楽器のための無伴奏作品集『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』『無伴奏チェロ組曲』の2つがある(この他、『無伴奏フルートのためのパルティータ』が1曲ある)。これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って多声的に書かれた驚くべき作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。特に、『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』第2番の終曲にあたる『シャコンヌ』は古今の音楽家を魅了して止まない作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。

一方、室内楽曲作品は、トリオ・ソナタや、通奏低音伴奏と旋律楽器のためのソナタもあるが、独創的な作品として注目されるのが、それまで専ら伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いた『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』『フルートとチェンバロのためのソナタ』『ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ』である。

なお、バッハの場合の「ソナタ」とはいわゆるバロック・ソナタ(大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルをとる)であり、古典派以後の「ソナタ」より簡潔な形である。


[編集] 特殊作品

バッハが特に晩年になってから手がけた様々な対位法的作品群が、一般に特殊作品として分類されている。作曲技法が手段ではなく目的となっている点で特殊といえる。音楽の捧げものBWV1079やフーガの技法BWV1080に代表される。この2つの作品は、いずれも1つの主題に基づいて作られており、フーガあるいはカノンの様々な様式が用いられている。

このほか特殊作品として、幾つかの単独のカノンや14のカノンBWV1087がある。カノン風変奏曲「高き御空より」BWV769もここに含まれるべきであるが、楽器指定が明確であるためオルガン曲として分類されている。


[編集] 参考

* 映画 アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記 、ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストロープ監督、1967年。(アンナ・マクダレーナ・バッハの項目を参照。)

シンセサイザーの歴史

シンセサイザーの歴史(アナログからデジタルへ)

<アナログ編>
シンセサイザーという楽器、今ではどの楽器店でもお目にかかるし、
聴くこともできるのですが本当の楽器と比べると、
どの部分が勝ってどの部分が劣っているのでしょうか。
シンセサイザーと呼ばれるようになって30数年が過ぎようとしていますが、
実は今世紀(20世紀)の初めには、もう今のシンセサイザーに似たようなものがありました。
もちろん電気を使ったものでThaddeus Cahill(タディウス・ケッヒル)が作った
"Telharmonium"(テレハーモニューム)というもので、
真空管もない時代だったので、とてつもなく大きいものでした。

1916年には、Leon Thermin(レオン・テルミン)が作った
"Theremin"(復刻版Midiテルミンがある)や、
1928年にはMarice Martenot(マリス・マルトノ)が
"Ondes Martenot" (オンド・マルトノ)という楽器を作り、
これらの楽器の奏でる音はJolivet and Messian (ジョリベットとメシアン)の
"Three Little Liturgies"などの曲の中で聴くことができます。
この頃にはハモンド・オルガンも作られ始めているし、
またシンセサイザー音楽で切っても切り放せない録音の機器も
第二次世界大戦を境に急速な発展をし、磁気テープの録音機が出てきました。

1940年代の終わり頃から1950年代には音楽の分野で、
現在のサンプラーの原点そのものである、
Musique Concrete(ミュージックコンクレート=具体音楽)が始まりました。
Pierre Schaeffer(ピエール・シェフェール)というエンジニアの人が始めたもので、
1948年のフランスのラジオ放送で"Concert of Noise"を発表し放送され、
また彼はもう一人のエンジニアJacques Poullin(ジャック・ポーリン)と組んで、
いままでの伝統的な楽器以外の身の回りに存在している音を録音し、
これらの音を曲の素材として構成し、
それまでの音楽とは全く違うものを創ったのです。

1949年にはドイツのMeyer Eppler(メイヤー・エプラー)が、
電子音響装置から創られた音の素材を、
テープに録音しながら行うElectronic Music(電子音楽)についての研究を発表しました。
やはり同じ時期にアメリカではTape Music(テープ音楽)と題して盛んに活動が行われ、
その後RCAにおいてHarry Olsen(ハリー・オルソン)と
Herbert Belar (ハーバート・ベラー)が電子音楽合成装置の研究の末、
RCA Mark II Electronic Music Synthesizerをデザインして作ったのです。
このシンセサイザーは従来の楽器にある音色などを電子装置を使って模倣しようとしたもので、
それまでの電子音楽や具体音楽のように、音の素材を従来の楽器以外に求めて、
新しい作曲の方法として取り扱ったものとは違うものでした。

1960年代に入ると電気産業ではトランジスターの出現があり、
Robert Moog(ロバート ・モーグ)はシンセサイザーに必要な機能回路を
トランジスターを用いて組み立て、初めてシンセサイザーが量産されるようになったのです。
彼の作ったシンセサイザーは、現在あるアナログ・シンセサイザー
またデジタル・シンセサイザーの基本になったもので、
かれの功績は永遠に語りつがれるでしょう。

内容としては、Voltage Cotrolled(ボルテージ・コントロール=電圧制御)
の回路を備えたModular(モジュラー)形式のシンセサイザーで、
このシステムだと後から自分の好きなだけモジュールを増やして
システムを大きくすることもできるし、モジュールの組み合わせも自由に行えるのです。
それは現在のバージョン・アップに似ているのかもしれません。
またボルテージ・コントロールは、ほとんどのモジュールに共通して使える機能であり
音色、ピッチ、音量、ビブラート、ポルタメント...などすべての指令は
このボルテージ・コントロールで制御されているのです。

ボルテージ・コントロールのプログラミングは、
Computer Sequencer(コンピューター・シークエンサー)で一般的に行われています。
また、このようなモジュール形式のシンセサイザーはMoogの他に、
Donald Buchla(ドナルド・ブークラ)、
イタリアではPaul Ketoff(ポール・ケットフ)が開発をしていました。

モーグ・シンセサイザーは
1968年にWalter Carlos(ウォルター・カルロス/後のWendy Carlos ウェンディー・カルロス)が、
"Switched on Bach"(スイッチド・オン・バッハ)を レコードとして発表し、
Buchlaの方はMorton Subotnic(モルトン・サボートニック)の音楽と共に
世間に知られるようになりました。

システムの中でもモジュール形式で販売されているシンセサイザーは、
使う側が好きなように組んでいく利点もあるのですがコストが非常にかかることもあり、
安価で小型化された製品をどのシンセサイザー・メーカーも作り始めました。
ex. Mini(Midi) Moog/ARP Odyssey/EMS-VCS 3/.....

1970年代はトランジスターからIC、LSIの時代に移行しつつシンセサイザーも
1976年にはSolid Stata Music(ソリッド・ステート・ミュージック)社から
シンセサイザーのために作られたICが初めて販売され始めました。
このICはVCA
(Voltage CotrolledAmplifier,ボルテージ・コントロールド・アンプリファイヤー=電圧制御増幅器)
であったりVCF
(Voltage Controlled Filter=電圧制御濾波器)などのモジュール回路が納められていたのです。
それによって機能回路は簡略化され、コンピュータで制御され
小さなスペースで大変複雑な装置を備えたシンセサイザーが現れました。
ex. Sequential Circuit PROPHET-5/Emu System Synthesizer/.....

その他コンピュータ制御という面では、
ローランド社がSystem 700と同時に8080AというCPUを使ったデジタル・シーケンサー
Micro Composer(マイクロ・コンポーザー)MC-8を発表し、
これを前後にシンセサイザーの革新的な時代に突入していくのです。

<デジタル編>
MIDIとは?
MIDIとはMusical Instrument Digital Interface の略称です。
つまり他社同士のシンセサイザーのデータをデジタル化し、
情報をやりとりするためのインターフェイス規格です。
MIDI規格は電子楽器以外の分野(照明/MTR等)でも利用され
扱いやすい規格であることを物語っています。
さてその歴史とは、どのような過程を経てきたのでしょうか.....
今までのアナログ・シンセサイザーはそのほとんどはCV/GATE(TRIGGER)方式ですが、
電圧コントロールに関してはメーカー同士異なった設計をしていたので
CV/GATE(TRIGGER)を接続したところで希望する演奏(音色)にはなりませんでした。

そこで、他社のシンセサイザー同士を接続して演奏するには、
CV/GATE(TRIGGER)方式を統一し、
正確に安定したコントロールを1本のケーブルで送受信することが望まれたのです。
それがデジタル信号による楽器の接続へと進み、
ついに1982年アメリカ・カリフォルニア州アナハイムで開かれる
ナム・ショーおよびドイツ・フランクフルトのムジーク・メッセの世界楽器トレードショーがあり
(今でも存続している)これがワールドワイドな会合の場所となっていました。

1982年1月のWestern NAMMの会合では、
ヤマハ/ローランド/コルグ/カワイ/シーケンシャルサーキット/オーバーハイム
CBS/ローズ/ Eμ/ミュージックテクノロジー/オクターブ/パスポートデザイン/シンタウリ
が参加してMIDIの基本的な機能や、8bit/31.25kbaudの転送速度などが提案されました。

その後は日本のメーカーが中心になって、
MIDIチャンネルの概念,システムエクスクルーシブなどの細かい部分の技術的統一がなされ、
1982年10月にアメリカのKEYBOARD誌で一般に発表されました。
その後現在に至るまで、日本側はMIDI規格連絡協議会(JMSC)が発足し、
後1994年4月1日MIDI規格協議会、全国電子楽器協議会、
日本電子音楽ソフトウェア協議会が合併して音楽電子産業協会
(通称アメイ:AMEI Assosiation of Musical Electronics Industry)となり、
1996年4月1日に通商産業省の認可を受け社団法人化され名称も
(社)音楽電子事業協会に変更され現在に至っています。
アメリカ側はIMUG⇒IMA⇒MMA
(MIDIマニュファクチャラーズ・アソシエーション/メーカー中心の機関)に発展しました。
現在もAMEIとMMAとの協議により、IDの管理、MIDI規格の検討を行っているのです。
改訂に改訂を重ね、1989年1月1日に「MIDI1.0規格(Ver.4.1日本語版)」が発行され、
現在のMIDI機器はこれを基に製造されています。

MIDI規格そのものは、今も昔も何も変わっていません。
より細分化されたものの規格が追加されているだけです。
その良い例が音色の増加であり、
これは本来のMIDI規格ではなくOptional(追加)の部分なので、準ずる扱いです。
現実にこのような新たな追加事項を無視するわけにはいかない状況となり、
MIDIケーブルでの通信プロトコル以外の部分を拡張管理して使用しています。

その最大の定義(提唱)がスタンダードMIDIファイル(SMF)です。
これはMIDIデータのファイル保存形式で、
最初はMIDI規格ではないとされていましたが、
そのネーミングと簡便さから知らず知らずに世の中に広まってしまい、
無視できない状況になりスタンダードMIDIファイルを定義付けしたのです。

<MIDI出現以降のシンセサイザー>
日本製品

1. ヤマハ
スティーブン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」で異星人との交信に使われたフレーズを、
当時のSY-1(1974年11月発売)を使用したことが印象深く感じられます。

このようなスペイシー・サウンドが流行っている中で、
モジュール型シンセサイザー(通称:タンス)がその主流を占めている中で、
ヤマハは巨大なエレクトーンというかたちでその全貌を表した。
それがFM音源の始まりと言うべき、GX-1の登場である。
事実これはそれまで夢のようなことであった巨大なポリフォニック・シンセサイザーであり、
価格も700万円と破格であった。

他社がポリフォニック化するのに問題解決できず苦労していた時代に、
モノよりポリでスタートした点が少々変わっていたことは、確かである。
その後、他社との価格戦争が始まりCSシリーズの登場となるわけである。
このシリーズにはいろいろなバージョンがあり、FM変調ができたCS-30などがあった。
また上位機種のCS-50,60,80などではポリフォニック・キー・プレッシャーなどの追加でより、
表現が豊かになり「技術のヤマハ」の本領を発揮したのである。
特にCS-80は「究極のアナログ・シンセサイザー」と呼ばれた。

徐々に安価で高性能のポリフォニック・シンセサイザーが他社から発売された頃、
衝撃のシンセサイザーが1983年に発売された。
皆さんも"よ〜く"知っている 「MIDI搭載」「FM音源搭載」
「16音ポリフォニック」DX-7を始めとする"X"シリーズの登場である。

この"X"シリーズの母胎なったものにGS-1(価格:260万円)があった。

そのコンセプトは第一にすでにあった「ポリフォニック」、
第二に「独創的発音メカニズムの開発」、
第三に「演奏者の表現力を活かす良質な鍵盤」であった。
開発はCSシリーズと同時期にスタートしたが、商品化までに10年かかったことになる。

'80年代後半からは、サンプリング音源を搭載したシンセサイザーが登場してくることで、
各社メモリー容量や圧縮技術の方向にその力を注ぐこととなる。
SYシリーズの登場は1989年で他社の発売より遅れたせいか、影が薄いことは否めない。

しかしFM音源とAWM(サンプリング音源)の2タイプの音源が選べ、
それぞれ加えたり掛け合わせたり(サンプリング波形でFM変調)
することのできる自由度が高い点、価格が高すぎた。

'90年年代に入りますます圧縮技術とDSP(Digital Signal Processor)技術の戦いとなった。
ここでVA(Virtual Acoustic)音源が登場するわけで、
リアルだが表現力に乏しく音色変化の少ないサンプリングと、
表現力はあるがリアルさに欠けるFM音源に代わる物理モデル音源として登場したが、
演奏の特殊技術を必要とすることで、
価格の高さも相まって衰退し現在はXG音源の一部として存在している。
つまり、すばらしい技術ではあるが時代の要求が追いついていなかったのであろう。

1994年にはDTM音源のフラッグシップXG-50が発売され、XG-80,90,100,100R,128と進化を遂げる。

  1998年SYシリーズを受け継いだ次世代シンセサイザー,EXシリーズを発表した。 DSP技術をふんだんに取り入れたシンセサイザーとして評価はすこぶる高いものである。

  結論:今後も時代をリードする「ヤマハ」であって欲しい!!

2. ローランド

 ローランドは現在、世界最大のシンセサイザー・プロダクツ・メーカーであり最新のテクノロジーを駆使して、常に最先端のシンセサイザーを開発し続けている。 と同時にモーグ・シンセサイザーの思想の最も正当な継承者でもある。

1973年に、最初のシンセサイザーSH-1000が発売され、価格は10万円台で当時の輸入シンセサイザーから比べれば破格の低価格であり、国内ミュージシャンに定着させる第一歩となる。SH-1000は自由に音色を創れるコントロール・タイプの機能に加え、10種類のプリセット音色も選べるユニークなシンセサイザーであった。

  コントロール・パネルで固定した音色しか出ないタイプのシンセサイザー が主流の時代に、プリセットという機能を持つことでボタン一つで 切り替えられるすばらしいシンセサイザーであった。とはいえ、 プリセットの音色はリアルな音色とは言えず、木管系の音色はそれらしき フレーズを弾けば聴こえないこともないが、ピアノなどはほど遠いものであった。 しかしだからといって、音楽に使えないわけではない。つまりシンセサイザー は先述したとうり、生楽器の模倣ではないという根本の考え方がこのSH-1000にはある。

今聴くと、あまく澄んだリード系の懐かしい音色がし、現在の音楽シーン にも充分通用する。雑誌・広告でしか見ることのできなかった外国製のシンセサイザーに比べ、 SH-1000は店頭で触れてみたり購入を考えられる時代の幕開けでもあった。 SH-1000に続いて、1VCOモデルのSH-3、アフター・タッチ装備のプリセット 専用機SH-2000を順次発売する。そして2VCOタイプの本格派シンセサイザーSH-5が登場する。

  1976年に国産初のシステム・シンセサイザー(通 称:タンス) SYSTEM 100/SYSTEM 700が発表された。価格もフルシステムで 265万円であったが、外国製のモーグ/アープ/EMSなどのシステム からくらべれば機能的にも劣らない部分安価であった。 このSYSTEM 700の開発を通 して、その後のアナログシンセサイザー 開発の基礎技術をおおむね把握し、その後の製品展開に大きな影響 を与えることになる。しかしどのシステムもそうであるが、 巨大にもかかわらず鍵盤演奏はモノフォニック(単音)であった。 そこで自動演奏を実現させるためにアナログ・シーケンサーが組み込まれたが、 36ステップが最大で簡単なアルペジオやスケールにか使えなかった。 そこで登場するのが膨大な記憶音数を持つ、マイクロ・コンポーザー MC-8の登場である。おそらく世界初のマイクロ・プロセッサー(CPU/8080A) を使った楽器(自動演奏装置)であり、現在のシーケンス・ソフトにも継承されている。

  そして1978年YMOに代表されるテクノ・ポップの登場と共に、 第一期のシンセサイザー黄金期を迎え、ミュージシャン以外 の一般の人達の間にも認知される楽器になっていった

  1978年SH-1とSH-7を発売する。それぞれSH-3とSH-5の後継機種 として設計され、新しい改良がなされたSH-1は初めてプラスチック製 のパネルを採用し、10万円を切って登場した。SH-7はふたつのVCO を使って鍵盤により2音発音させることができた。

そして、それ以降のローランドのほとんどのアナログ・シンセサイザー がこの2台のシンセサイザーの技術を継承することとなる。 つまり分厚いローランド独特の音色が確立するのである。

  1980年代は価格戦争も相まって、国産アナログ・モノフォニック・ シンセサイザーの最終世代として、ショルダー・キーボードに も使用できるよう考慮されたSH-101が登場する。低価格でコンパクト。 回路的にも洗練され、デジタル制御による安定性、使い勝手の良さ、 またなんといってもすばらしい装置にデジタル・シーケンサー も搭載していた。これによってシンセサイザーの世界に入門する人も多かった。

  そして、1979年に世界初のマルチCPU搭載ポリフォニック・シンセサイザー JUPITER-4を発売する。新たな機能も搭載され、オート・アルペジオ/ ユニゾン・モード/内蔵コーラス回路もその代表的なものである

  1981年にJUPITER-8を発表し国内価格98万円にもかかわらず、 性能および機能が評価されトップ・クラスのシンセサイザーとして、 全世界に定着させる大きなステップとなった。アマチュア・ ミュージシャンにも手の届くポリフォニック・シンセサイザー として登場するのがJUNOシリーズである。この製品の中枢をなすものが、 新たに開発した音源DCO(Digital Controlled Oscillator)である。 そしてJUNO-6、メモリー機能のついたJUNO-60、αJUNO-1、αJUNO-2 と世代交代していくがどれも人気が高かった。

そして登場するのが、ローランドMIDI搭載JX-3P、JUPITER-6である。 JX-3Pはプログラマブル・プリセット・ポリフォニックから"3P"と名付けられ、 音色設定の別売プログラマーを設定した新しいスタイルを提案した。 これがだいぶ好評だったようで、つまり音創りを皆さんしていたようである。 JUPITER-6はJUPITER-8のリファインされたモデルとはいえ、 クロス・モジュレーションやオシレーター・シンクを活用した金属的な音や、 鋭いブラスの音も得意だった。JUPITER-6を8ボイスにしてモジュール にしたものがMKS-80で、今でも多くのミュージシャンに使用されている。

  1987年にデジタル・シンセサイザーとしてD-50が登場する。 アナログ・シンセサイザー的な音創りの部分とPCM音源のリ アルな音源のハイブリッド構成で、デジタル・エフェクター 内蔵を持ち、今まで例がない構成のシンセサイザーであり、 FM音源とは完全に一線を引いていた。

  そして1987〜1988年に、線形演算合成方式(Linear Arithmetic Syntheses) "LA"方式と名付けた音源のチップを開発し現在のJDシリーズ/JVシリーズに も受け継がれている。1989年末、当時開発中の新しい音源チップGPを100% 活用した新世代音源の開発を目的とした、GSS開発プロジェクトチームがス タートした。将来長期に渡って次世代の標準機として、使用することがで きる高音質、高性能、ハイコストパフォーマンスを最も新しい技術で実現 する方向を選択したのである。そしてGSフォーマットを完成し、1991年1月 アメリカのNAMMショーで、GSフォーマットとその音源を搭載した マルチティンバー音源SC-55を発表する。SC-55はGM(General Midi)に適合 する音源の1号機となった 後のSC-55MkII、SC-88、SC-88Proへと進化していくのである。

結論:今後もアーティストの気持ちを理解できる「ローランド」であって欲しい!!

アナログシンセサイザー

アナログシンセサイザー
アナログシンセサイザーは、シンセサイザーの内、アナログ回路を用いて音声処理を行うものの類。
1980年代中期に登場したデジタルシンセサイザーの普及により一時期は勢いを失ったが、
1990年代に入ると再評価されて、両者が融合したり共存する形となった。

基本波形を作る発振器
(ボルテージコントロールドオシレータ、VCO)、
基本波形の倍音成分を削って加工するフィルター
(ボルテージコントロールドフィルター、VCF)、
波形の振幅(音量)を調節するアンプ
(ボルテージコントロールドアンプリファイア、VCA)を基本構成とする。
これらのモジュールにコントロール電圧をかけることで音程、音色を制御する。

1960年〜1980年頃に製造されたアナログシンセサイザーは、
気温の変化
(厳密には、機体内部の熱変化による抵抗値の変動)が
VCOに大きく影響したため、まるで管楽器や弦楽器のような演奏時の調律が必須であり、
演奏者やスタッフの悩みの種となっていた。
たとえばYMOのコンサートでは、開演の数時間前から本番と同様の照明を当てて、
本番での温度変化がないようにされた。
その対策として、発振器部分だけをデジタル化
(デジタルコントロールドオシレータ、DCO)した楽器もあった。

コントロール電圧を生成するモジュールには鍵盤、
エンベロープジェネレータ、LFO(ビブラートをかける)などがある。
さらに、クロスモジュレーションやリングモジュレーションなどの特殊な変調法を
用いることで基本波形では得られない音色を作ることができる。

和音を出したり凝った音色を作るためには高価で大規模な電子回路が必要となるため、
安価なデジタルシンセサイザーに押されたが、
特徴的な音色や直感的な操作性は定評がある。
その結果、アナログシンセサイザーとデジタルシンセサイザー双方の
良さを集約した新たな楽器も登場している。

古いアナログシンセサイザーの音色には独特の暖かさや華やかさがあるため、
アマチュア・プロを問わず現在でも愛用する奏者は多い。
時代の変化につれ、古いアナログシンセサイザーに用いられた電子部品が
入手困難となり修理しにくい状況が発生している。
「電子部品」として等価な別のパーツであっても、
「楽器」としては等価でないのが通常で、
修理した結果もとの味わいが薄れてしまうという嘆きは
古いアナログシンセサイザー奏者にとって看過できない問題である。
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